小さい頃からの自分を知る親戚と集まることが多くなるこの季節。40代独身女性の私は、正月におせち料理をみんなでわいわいと囲む中、妻やママではない自分に、どこか居心地の悪さを感じてしまいます。コロナ禍から日常が戻ったこの年末に、親戚付き合いをあらためて考えてみました。
両親との愛着関係を築けなかった幼少期
年末年始の足音が近づくと、独身女性の私は、心がキュッと縮こまる。一年の中でいちばん、「家族」という単位からこぼれ落ちた自分を実感するからだ。
私は両親ともに40代で生まれたひとりっ子だ。母が病気がちだったので、祖母の家に預けられていた時もある。父と母は6歳違い。おのおのが持つ価値観や生活習慣は全く異なり、しばしば意見が食い違った。家族の中で、食卓を囲むあたたかな会話はほとんどなかった。
そんなこともあってか、私は、両親との愛着関係をなかなか築けなかった。血がつながっているはずなのに、小学生の時点で「私は、この家でとらわれの身だ」とおびえていた。
そんな私の救いは、母方の親戚だった。私と数カ月違いで生まれたいとこが2人、さらに2歳下のいとこもいて、盆正月にそれぞれの家族が祖母宅に集えば、必ず遊びに誘われた。いとこたちとは思春期にいったん距離が離れたものの、大学生になると、1つの部屋に集まり夜ふかしをして、たわいない話で盛り上がった。
それが、社会人になって何年か経つと、その関係は希薄になった。いとこたちは結婚してそれぞれの家庭を持ち、子どもが産まれた。
そして私は、就職氷河期世代と言われ、恋愛や結婚よりも仕事を優先して、細々と続けてきた。父は亡くなり、母も病院への入退院を繰り返すようになった。同年代が歩むライフステージを、自分は飛び越してしまったように思った。
正月の居場所がなくなった私は、1月1日、京都への日帰り往復切符を買い、新幹線で一人旅をするようになった。
家を出るのは日の出前。車窓からそびえ立つ富士山を眺め、京都では鴨川の流れをぼんやりと見つめる。そんなフットワークの軽さは、独身だからできること、と前向きにとらえていた。
「2人組」が苦手だから夫婦に縁遠い?
世の中には「婚活」というものがあるが、家族関係が思わしくなかった私から見ると、なぜ、お金をかけてまで結婚というゴールをつかみ取りたいのか、イメージしにくい。私は、人の気持ちを察して動くことにはたけているが、マイペースなところもある。家族の形を作ったところで、結局は、自分が育った環境の繰り返しになるような気もする。だから、婚活のスタート地点に立つこと自体、しんどい。
その理由が少しクリアになったのは、2023年放送のドラマ『いちばんすきな花』(フジ系)だ。主人公の男女4人は全員「2人組が苦手」という設定で、第1話から1つのテーブルを囲み、それぞれがつらさを打ち明ける。
まさに、私も同じだった。高校時代の休み時間は1人、教室の窓から外の景色を眺めていた。見えるか見えないか分からないくらい遠くに見えるのは、キラキラと光る海。自分の隣には誰もいなかった。
そんな思い出があるくらいだから、夫婦のような2人組からは縁遠いのだろうか?
かといって、1人きりが好きなわけではない。今、カフェや街の雑踏のように不特定多数の人間の中にいる自分は、自宅にいるよりも安心できる。
幸い、私は大人になってから友人に恵まれた。今住む街には、商店街が連なり、行きつけの店も銭湯もあって、お店の人と一緒に世知辛い社会を嘆くこともある。私が何か理不尽な目に遭うと、一緒に怒ってくれる人もいる。
コロナ禍で緊急事態宣言が出た時期は、シェアスペースの会員になり、家でも職場でもない第3の居場所を持った。地域というコミュニティでの緩やかなつながりは心地良い。
「いい人」がいない自分は異端?
こうした私の生き方は、年配の親戚には、あまりピンとこないようだ。法事のように、たまに一同が集まると、「誰かいい人いないの?」という質問が飛んでくる。おそらく、「結婚は幸せの形」という考え方に、私が当てはまらないから心配するのだろう。40代になってからその話題に触れられることはめっきり減ったが、つい先日も、叔母の口からこのワードが出て驚いた。
「いい人」とは、安定した暮らしを望めるパートナーを指すのかもしれないが、自分が望む仕事で道を開いてきた私には、安定を相手に求めるような生き方にはどこか物足りなさを感じる。とはいえ、1人で生きたい、という反骨心があるわけでもない。ただ、日々の生活を積み重ねることに必死で、時に楽しみを見つけてきた人間だから、大きな未来を描けないのかもしれない。でも、この言葉をかけられると、自分は一般的なルートから外れた「異端」だと自覚せざるを得ないのだ。
国立社会保障・人口問題研究所が発表した統計によれば、50歳時の未婚割合は、近年男女ともに上昇している。2000年は男性12.57%、女性5.82%だったが、2020年は男性28.25%、女性17.81%だ。多数派とは言えないが、同年代の友達の中に独身女性は何人もいる。
それでも、独身は「孤独」と捉えられるようで、「あなたは1人だけれど、しっかりしているから」などといった頼りないほめ言葉だけが、ふわふわと宙に浮くようにも感じられる。
独身は社会的弱者なのか
ただ、父の死や母の入院で痛感したのは、やはり、戸籍上の親族は、そのつながりが根強いということだ。
例えば、死後の手続きの中には、被相続人が生まれてから亡くなるまでの戸籍謄本が必要で、本籍があった全ての役所から取り寄せなくてはならないものもある。年齢によっては、古い様式の「改製原戸籍」も存在する。私の場合、郵送を希望したので、定額小為替で手数料を払うことが求められた。その為替自体にも発行手数料がかかり、決して安い金額ではない。
それに、病院へ入院するには、家族の署名や連絡先、同意書を求められた。容体によっては、家族の誰かが、昼夜を問わず病院から呼び出され、付き添うことになる。
周りに親戚との関係を聞いてみると、顔と名前が一致しない人がいる、とか、あまり付き合いがなく疎遠だ、という答えが返ってきた。
私は、家族とは絆を作れなかった分、友人、さらには街の人たちとつながろうとしてきた。けれども、「世帯」という視点で見れば、自分はやはり、社会の中で弱者にあたるのではないか、という不安が頭をもたげる。何かあった時のために、親戚付き合いは適度に保っておいた方がいいのだろうか――。
今なお結婚観を持てない私だが、幸せの選択肢を「結婚か、独身か」という2択で捉えるのではなく、どんな生き方も尊重し合える考え方が広がれば、もっと息がしやすくなるだろう。なのに、それが成り立つ社会になるには、まだ長い時間がかかりそうだ。
多様性という言葉だけが一人歩きしないために、私には何ができるだろうか。ひとまず、「誰かいい人いないの?」という質問は、軽々しく言わないようにしたいし、自分たちの世代でなくしたいと思う。