おひとりさまの備え

自分が高齢者になり、身体が不自由になったり、認知症になって意思決定できなくなったりする日のことを想像したことがある人はいるでしょうか。いまいる家族やパートナーが頼れなくなるときを想像したことがあるでしょうか。
少子高齢化が進み、2025年には6世帯に1世帯が一人世帯になると言われています。「1億総おひとりさま時代」を生き抜くために今から何を、どのように備えておけばいいのか。
住まいを中心におひとりさまサポートを20年続けてきた司法書士の太田垣章子さんが、多くの経験から選び抜いた30のリスクと対策をまとめた新刊『あなたが独りで倒れて困ること30』。その中から、事例別にご紹介します。

独身の祥子さん(仮名・58歳)は、これまで真面目に生きてきました。

新卒で入社した商社では、経理部に所属。確実な仕事ぶりが評価されてきました。プライベートな生活も、いたって堅実。生活費をできるだけ抑え、無駄な物は買いません。まわりの女の子たちはランチに練り歩いても、祥子さんだけはお弁当を持参。そうやってコツコツとお金を貯めてきました。

いい人がいたら結婚したい

祥子さん自身、結婚願望がなかったわけではありません。むしろいい人がいれば早く結婚して子どもも産みたい、そう思っていました。

3歳年下の弟は社会人4年目で、結婚して2人の子どもにも恵まれ、和やかに生活しているのを垣間見て、うらやましいとは感じていました。

甥っ子や姪っ子を身近にして、プチママ気分も味わいましたが、彼らが少し成長してくると、部活やら受験やらで会う機会が減ってしまうことも仕方がないこと。弟の奥さんも悪い人ではありませんが、やはり気を遣ってしまいます。

子どもが産みづらくなった年齢を迎える頃には、気持ちはかなり沈みがちになりました。婚活をしたこともありましたが結局続かず、さらに仕事に注力する毎日となっていきました。

そんななかで、想像もしていなかったコロナウイルス。仕事も、完全リモートの日々。誰ともしゃべることなく、気分転換に外出する気にもなれず、気持ちはどんどん落ち込みます。

ふと気が付けば、祥子さんには何気ない雑談をする友だちがいませんでした。これはコロナの事態となって、初めて気がついたことです。今まで仕事にばかり目が向いていた毎日でした。ここからはもう少しプライベートで、人とのつながりを持っていこうと決めました。

リモートの生活が続くなかで、祥子さんは自分の体重が減っていることに気が付きました。人の目がなくなって太ったという話はよく聞きますが、通勤で体を動かすこともなくなって、なぜ体重が減るのかしら……と不思議でしたが、そういえば動いていないせいか、食べる量が自然と減っていたのかもしれません。

ダイエットもなかなか成果が出なくなった年代だったので、出社したときにはまわりに驚いてもらえるかもしれないと、少しうれしい思いもしたのです。

受診の結果はまさかの…

ところがさらに食欲は減り、体重はまた減っています。さすがにおかしいと思い病院へ行こうと思いましたが、医療現場はコロナで大変な状況。もうちょっと様子を見ようと、二の足を踏んでしまいました。

「すい臓がんです」

それから1カ月後。自分でも体調不良を感じ、ようやく病院を訪れ検査の結果で耳にした言葉です。しかもかなり広範囲に、転移しているとのこと。手術もできない状態でした。

「余命は半年です」

水の中で音だけがこぼこぼと遠くから聞こえているような感じでしたが、頭ではすぐにその言葉を理解することはできないような衝撃でした。

事務局の方が、入院する際の手続きを説明してくれました。身元保証人がどうのこうの……。どのような役目かもわからず、家に戻って調べたほどです。それより入院したら、もうこの部屋には戻って来られないのでしょう……。質素な生活だったので物は少なめでしたが、今からこれを片付ける体力的な余裕もありません。

かといって、しばらく会っていない弟家族に、任せたくもありません。小さな頃にあんなに可愛がった甥っ子たちも、今では立派な社会人。忙しくしていることも、目に見えています。

病院の最後の支払いだって気がかりです。誰かにしてもらわねばなりません。使っていない銀行口座も、いくつかあります。解約して集約しておかなきゃ……。

人生で二度とない衝撃的な余命宣告をされたのに、「迷惑をかけたくない」と、とても冷静な自分がいました。そしてそのときにふと思ったのです。私にはまだこうして、考えたり行動したりする時間もあるし、考えることのできる頭もある。でも、もし突然に意識不明の状態になるような病気や事故にあったら、部屋も何もかもこのままの状態で、誰かに何とかしてもらわなければならない。

さまざまな片付けも、自分が死んでからのことも、誰にも何もお願いすることなく、突然、死に向かうこともある……。そう考えると、自分のおかれた状態はまだマシなのだと、気が軽くなりました。

死ぬことなんてまだ先だと思っていたし、結婚せずにきたことも「たまたまそうなった」だけのこと。このような事態はいつか必ず来るのに、その「いつか」をまったくイメージしていませんでした。

せめて弟家族にだけは迷惑をかけたくない。そう思った祥子さんは身元保証会社にすべてを委ねました。

財産管理や任意後見契約、死後事務委任契約も全て締結しました。弟家族に気を遣ってあれこれお願いするくらいなら、お金を払ってサポートしてもらおう。

親族には気を遣いたくないし、相手にも気を遣って欲しくない。気兼ねなく、愛情だけでつながっていたい。お金は遺すことより、今の自分をケアしてくれるものに使おう。人生最大に追い込まれながら冷静に考えている自分に驚くとともに、考えて決断できる自分が愛おしくなりました。

身元保証会社と契約できるのは、意思がはっきりしている人だけ。

「私はまだ幸運でした」

そう漏らした祥子さんは、その後、半年を少し過ぎた頃にひっそりと人生の幕を下ろしました。

妻が認知症になって

5人に1人が認知症になってしまうといわれているのが、日本の長寿社会です。それなのに日本人の大半は、自身が認知症になったときの備えをしていません。

「自分に限って大丈夫……」と思っているのでしょうか?

私のもとに、ご相談に来られた山中さん(仮名・73歳)。認知症で施設に入所してしまった奥さんの銀行口座から、お金を引き出したいと悩んでいました。

専業主婦の奥さんの口座。いったいいくら入っているのでしょうか。

「だいたい80万円くらいですかね……」

これ以外、奥さん個人に資産はありません。

すでに認知症になってしまって、もはや奥さんの意思を確認できる術がなくなってしまった今、奥さんの資産を使うには、法定後見制度を利用するしかありません。

裁判所に法定後見の申し立てをすると、後見候補人がそのまま選ばれることもありますが、親族の意思にかかわらず弁護士、司法書士などが選任されることもあります。そしてその法定後見人が、奥さんの口座のお金を、奥さんのために使用していくことになります。

基本、親族の思いは反映されません。後見人がご本人のことだけを考えて、ご本人のお金を使っていきます。

負担の大きい法定後見制度

もし山中さんが後見人に選任された場合、毎年奥さんのお金に関する出納帳のようなものを裁判所に出さなければなりません。実は、法定後見制度は後見人にとっての負担も大きいので、諸手を挙げて賛成することはできない制度です。どうしても制度を利用するしかない、そんなときに仕方なく使う制度と思ってください。

だからちょっと待って。80万円を使うためだけに、わざわざ法定後見制度を利用する必要があるのでしょうか?

「別に妻の口座を使わなくても、施設の費用は払っていけます」

山中さんの場合、奥さんは専業主婦で家庭の経済はすべて山中さんのお金で賄ってきています。それならば、「奥さんの使っていない口座にお金が残っていることが気持ち悪い」だけで、そのお金を使わなくても生活に支障はありません。

それよりももっと重要なことは、山中さんご自身のことです。奥さんがお亡くなりになるまで、山中さん自身が健康で頭もはっきりしているという保証はどこにもありません。

もし山中さんが入院するようになったとき、誰が入院手続きをしてくれますか? もはや奥さんを頼ることはできません。

もし山中さんの意思が怪しくなったとき、誰が奥さんの施設の費用を払うのですか? すべての会計を山中さんが担っているのですから、たちまち奥さんの施設はお金が払ってもらえなくなって困ります。

もし山中さんが先に亡くなってしまったら、誰が火葬の手続きをしてくれますか? 自分で棺に入ることもできないし、火葬のボタンを押すこともできません。ましてや、遺された奥さんが亡くなったとき、誰が手続きしてくれるのでしょう。

結婚していると、「相手がしてくれる」と安心してしまいますが、たとえ夫婦であったとしても、片方が認知症になってしまったら、その瞬間から「おひとりさま」です。

夫婦が同時に亡くなることは少ないので、いつかは皆「おひとりさま」になってしまうのです。そのことに気付いていない人が、どれだけ多いことやら……。

おひとりさま=独身、ではない

「おひとりさま」=結婚していない人ではないのですよ!

もちろん亡くなる寸前まで、頭がはっきりしている方もいます。そんな奇跡的な人でも、自分の死後のことはできません。そして当然のことながら、自分で判断できなくなることのほうが圧倒的に多いのです。そのときのために、備えておきましょう。認知症になってしまうと、残念ながら自身のお金を自由に使うことができなくなります。

「こんな施設に入所したいな」

「お金は、このことに使って欲しいな」

もしそんなことを考えていたとしても、備えておかないとただの妄想に終わってしまいます。山中さんがすべきことは、奥さんの口座からお金を引き出すことではなく、ご自身に何かがあったときに、

●奥さんの施設の費用がちゃんと支払われる
●奥さんに万が一のことがあっても誰かが対応してくれる
●自分の入院手続きや費用の支払いをしてくれる
●自分が死んだときの対応をしてくれる

まだまだありますが、まずは、このようなことに対して備えておくことが大切なのです。

仮に子どもがいたとしても、親のお金を自由に使うことはできません。
自分で判断ができなくなってしまったあと、自分の思いを叶えてくれるように備えておくことが大切なのです。

独身の祥子さん、結婚している山中さん、いずれも「おひとりさま」のリスクがあるので、備えが必要になるのです。

<東洋経済ONLINE>
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