シングル介護

25歳で農家に嫁いだ女性。3歳上の夫を59歳で亡くした後も義実家で3人の子供や義父母などと暮らした。60代に入ると実母が病に倒れた後、義母や義父も次々と……。90歳前後の3人の介護がいっぺんにやってきた女性の孤軍奮闘の日々が始まった――。

この連載では、「シングル介護」の事例を紹介していく。「シングル介護」とは、主に未婚者や、配偶者と離婚や死別した人などが、兄弟姉妹の有無に関係なく、介護を1人で担っているケースを指す。その当事者をめぐる状況は過酷だ。「一線を越えそうになる」という声もたびたび耳にしてきた。なぜそんな危機的状況が生まれるのか。私の取材事例を通じて、社会に警鐘を鳴らしていきたい。

始まりは熱中症

中国地方在住の鈴木愛子さん(60代・既婚)は、高校を出てジーンズメーカーで働いていた頃、友人の紹介で農家の長男である3歳年上の男性と出会い、25歳の時に結婚。義両親だけでなく、義祖母、高校を卒業したばかりの義妹とも同居することになった。

鈴木さんは、農業に関して全くの素人だったが、がむしゃらに農業や家事を覚えた。結婚の翌年に長女、その2年後に長男、さらに1年後に次男に恵まれ、その後、30年近く忙しいながらも充実した生活を送っていた。

ところが2012年の初夏、田植えが終わった夜に夫が倒れ、約1カ月半後に59歳で亡くなった。以前からずっと体調が悪いと言っており、死因は肝硬変だった。夫は若い頃からお酒が大好きだった。

その後も50代の鈴木さんは、80代の義両親、30代シングルマザーの長女とその小学生の息子、30代の長男夫婦と未就学児の子供1人、30代介護福祉士の次男の9人で同居している。

鈴木さんは家族全員のための家事をしながら、農家を継いだ長男の手伝いのほか、日中は不登校支援のボランティアを20年続け、夕飯の後は工場で働き、時間を見つけては自分が好きな野菜を育てるなどして、穏やかに暮らしていた。

2019年8月3日の深夜23時ごろ。その日、疲れていた63歳の鈴木さんは、すでに布団に入り、就寝する準備をしていた。

すると突然、実家で87歳の母親と暮らす4歳年上の姉から電話がかかってきた。

「お母さんが倒れてる! 私、気がつかなくて、倒れて30分以上経っていたかも!」

と気が動転した様子。

「今は意識は戻ってるけど、これから救急車で病院に運ばれるから、念のためすぐ来て!」

鈴木さんは急いで着替え、車を走らせて、指定された救急病院へ向かった。

離婚歴のある姉は、1度目の結婚後も2度目の結婚後も、実家で母親と同居している。鈴木さんの父親は、1989年に迎えた61歳の誕生日の朝、冷たくなっていた。急性心不全だった。もともと姉は、子供の頃から「自分が両親の老後の面倒を見る」と心に決めていたようだ。2人目の夫の仕事の都合でしばらく実家を離れていたが、父親が亡くなると、1人遺された母親を心配し、すぐに実家に戻った。姉には子供が3人おり、末娘(鈴木さんにとって姪)夫婦が、姉夫婦と母親と同居していた。

病院に着き、姉に状況をたずねると、母親は救急車で運ばれる時には意識が戻り、「私、転んだの? 覚えてないなあ」と言っていたという。

鈴木さんが母親と面会できたのは、深夜0時を回ってからだった。若い頃からリウマチを患い、足が痛むため外出時は杖や介助が必要で、家の中でも杖を使ったり伝い歩きしたりしていた母親は、要支援1だった。

その日は就寝後にトイレに起き、トイレから戻る時に立ったまま意識を失って倒れたため、顔面を床で強打し、鼻と頬を骨折したようだ。目の上は大きなタンコブができ、顔面の半分ほどが赤黒くなっていた。

「5年ほど前に脳梗塞を起こしていた母は、血液をサラサラにする薬を飲んでいた影響もあり、鼻から上は痣のように変色して、まるでお岩さんのようでした」

母親は駆けつけた鈴木さんを見ると、「今年はお化け屋敷行かなくていいわ〜」と、冗談っぽく言った。そんな明るい調子の母親に、鈴木さんは胸をなでおろした。

容体急変

ところが、入院から2日目に母親の様態が急変。嘔吐おうとを繰り返し、食事も取れなくなる。主治医から電話があり、「倒れた衝撃で腸が骨に挟まれて腐ってきています。このままにしていると危ない。すぐに病院に来てください」と言われ、鈴木さんは再び病院へ駆けつけた。

母親は腸閉塞を起こしていた。主治医によると、熱中症で体力を消耗しているうえ、2014年に起こした脳梗塞と持病の心臓弁膜症があるため、手術中に心不全を起こす可能性があり、「すぐに手術をしないと命が危ない」という。

「もし、手術中に心不全を起こすようなことがあったら、喉を切開して気管カニューレを入れますが、同意されますか?」

このとき、姉と連絡がつかず、病院へ来ることができたのは鈴木さんだけだった。鈴木さんは気が動転し、主治医の説明に理解が追いつかない。

「どうしたらいいのでしょう? 先生にお任せするしかないです」

5時間後、母親はICUに入った。手術中、母親は危険な状況に陥り、気管切開手術を受けた。人工呼吸器に助けられながら自発呼吸をしているが、母親は大きな口を開け、肩で息をしていて、とても苦しそうだった。

「熱中症で倒れ、顔面打撲、鼻骨折、頬骨折。これが治ったら家に連れて帰れると思っていたのに、こんなに重篤なことになるなんて、私も姉も思ってもいませんでした」

このとき介護認定を受けると、母親は要介護5。鈴木さんは毎日車を20分走らせて母親の面会に来ていたが、帰る時はいつも「明日も生きていてね」と祈るような気持ちで病院を後にしていた。

「外での熱中症はよく耳にしていたし、私も畑仕事をするので気をつけていましたが、家の中での熱中症に自分の母がなるなんて……。この頃の私は、不安で不安でどうにかなりそうでした」

きっかけは熱中症だが、持病も複数あり、高齢だったため、重篤な事態に陥ってしまったようだ。

悪いことは重なる

母親が倒れる2カ前(2019年6月)のこと。鈴木さんは車の運転中、追突事故に遭った。車は修理に出すことになり、鈴木さん自身も腰や背中、首などが痛くて、一週間に2〜3度病院通いをしていた。そのため、しばらく実家に顔を出せていなかった。その間に母親は倒れたのだ。

さらに悪いことは重なる。母親が倒れた8月3日から約2週間後の8月19日。その日は92歳の義父が、89歳の義母を連れて、腎臓の専門病院に診察を受けに行く日だった。いつもなら鈴木さんが義母を連れて行くはずだったが、その頃鈴木さんは母親が危ない状況だったため、義父が快く引き受けてくれた。

その日の朝、鈴木さんは何となく、「義母がしんどそうに歩いているな」とは思っていた。しかし鈴木さんは母親のことが心配で、すぐに忘れてしまった。午後、鈴木さんが母親の病院にいると、義父から電話がかかってきた。

「ばーさんが息ができようらん。これから救急車に乗って、○○病院に運ばれる。わしゃ、どうしやーええかのう?」

鈴木さんは、わけが分からなかった。

「息ができてない? どういうこと? と思いました。若い頃から腎臓が悪い義母は今日、かかりつけの病院から紹介状をもらい、腎臓専門の病院に行く日でした」

義父に聞いても訳がわからないため、鈴木さんは母親の病院を後にし、車で1時間ほど離れた義母が運ばれた病院へ向かった。鈴木さんが駆けつけると、義母は救急治療室のベッドに寝かされ、その横で義父がオロオロしていた。

担当の医師からの説明によると、義母が呼吸をうまくできなくなったのは、カリウムの取り過ぎにより心臓に負担がかかったためだという。義母はその年の夏、ろくに食事を取らずに、大好物の(カリウム含有量が多い)スイカばかり食べていたため、通常の半分しか呼吸ができていない状態に陥っていたのだ。そのまま義母は2週間入院することになった。

以降鈴木さんは、自宅から1時間ほどかけて午前中は義母の病院へ。午後からは母親の病院へ行き、夕方からは自分の追突事故後のリハビリを受けにまた別の病院へ行くという、3つの病院をはしごする生活が始まった。

2週間ほどたった頃、義母の退院が決まる。しかししばらくは車椅子状態で、週1回の通院が必要だ。

鈴木さんは、できれば母親の側から片時も離れたくなかった。義母が退院して家に帰ってきても、義母の世話まで手が回らない。そこで鈴木さんは、家族のかかりつけ病院の医院長に相談。すると1週間ほど義母を入院させてもらえることになった。

「これで義母の世話は洗濯物を取りに行くだけになり、随分気が楽になりました。母はいつ亡くなるかわからないような危険な状態だったため、私は母の側から離れたくなかったのです」

そんな悪いこと続きの8月。母親の病院から帰宅して夕食を作り始めると、義父はリビングで寝ていた。鈴木さんは義父の様子が気になり、ふと夕食作りの手を止めて義父のそばへ行くと、「頭がフラフラする。歩けない」と弱々しい声で言う。

「これはおかしい」と思った鈴木さんは、まだかかりつけ病院がギリギリ開いている時間であることを確認すると、なんとか義父を車に乗せ、病院へ向かう。義父は車の中で嘔吐し、病院に着くと、看護師たちの助けを得て、車椅子に移乗。義父は病院内でも嘔吐した。

その日義父はさまざまな検査を受け、義母の隣の部屋で入院することに。しかし義母には義父が入院したことは伏せておいた。心配性な義母が大騒ぎすることが分かっていたからだ。

結果、義父は疲労がたまっていただけで、1日入院して点滴などを受け、翌日には帰宅した。

「『3人の介護がいっぺんにやって来た〜!』という感じでした。幸い、義両親はすぐに退院が決まりましたが、高齢者の病院通いも大変です。『いつかは来る』と覚悟はしていましたが、3人一度に来るのは勘弁でした……」

鈴木さんは、「こんなとき夫がいてくれたら」と思ったという。鈴木さんが夫と結婚した当初から、義母は糖尿病を患い、いつからか腎臓まで悪くしていた。鈴木さんは9人もの家族の食事とは別に、義母専用の塩分控えめの食事を作っていた。「義母の食事づくりは大変だけど、重症の母に比べれば、まだ身の回りのことは自分でしてくれている義両親には感謝しなくては」と自分に言い聞かせた。

夫には姉と弟と妹がいたが、義妹は関東に住んでいるため、なかなか会うことはない。義弟は長男(鈴木さんの夫)に家督を譲り、車で2時間ほどの遠方へ婿に出ていた。義姉は車で30分ほどのところに住んでいたものの、両親の世話をする気はサラサラないようだった。しかしこの義きょうだいたちが、鈴木さんにとって大きな悩みのタネだった。

義母の家で9人同居

25歳で結婚し、以降ずっと義実家で義両親と同居している鈴木さん。当時9人で暮らしていたというが、どんなに広いのだろうかと思えば、部屋はキッチンの他に9部屋。9人で9部屋あれば十分かと思いきや、そのうち2部屋は義母の荷物が溢れていて使えず、トイレは2つ、浴室は1つだという。

「朝なんてキッチンは戦争のようで、トイレもお風呂も順番待ちです。義母の部屋は使わない荷物がありすぎて、長男夫婦に子供が生まれても使わせてもらえませんでした」

義母は一人娘として産まれ、22歳の時に義父が婿養子としてやってきた。家から出たことがなく、外で働いたこともない義母は、女王様のようにワガママだった。

「私が結婚してこの家に来た時は、義祖母がまだ生きていて、義母も義祖母も家事もほとんどせず、義父に命令して何もかもやらせていました。それを見るのも苦痛で苦痛で……。外から来た者同士、義父とは助け合いました」

誰の言うことも聞かず、自分が中心でないと気に入らない義母は、義父や自分の子供たちからも疎まれていたという。

「夫もこんな家庭、嫌だったのでしょうね。夫と義母は、毎日のようにけんかばかり。夫は私を、義母からも義きょうだいからも守ってくれていました。夫が義両親より先に他界してしまうと、義父は今まで以上に私や私の家族を守ってくれるようになりました。その頃から義母の機嫌が一層悪くなったように思います。義父が自分より私や孫をかわいがることが気に入らなかったのかもしれません。近くに住む義姉婿の言うことしか聞かなくなり、義父も義母の相手をほとんどしなくなっていました」

結局、義母が荷物を片付けてくれないため、鈴木さんの長男家族は近くにアパートを借りて引っ越し。しかし農業は長男が継いでいるため、毎日田畑には通って来た。

家事や孫の世話は、ほとんど鈴木さんが担当し、休みの日はできる人がした。鈴木さんの提案で、「シェアハウスのように、できる人ができることを、話し合いながら協力してやろう!」と決めたのだという。

「結婚後は、義両親の生活費も全部夫が出していましたが、子供たちの学費で私たちはヒーヒー言っていたので、家計を分けました。子供たちが働き出してからは、年間生活費を計算して、世帯で割ってもらっています。義両親からももらっていましたが、義きょうだいたちは気に入らないようで、会うたびに『ジーさんバーさんからお金を取るな!』ばかり言われていました」

在宅介護スタート

2019年8月末の介護認定で要介護5だった母親(87歳)は、2カ月後にリハビリ病院に転院した。転院先の病院の主治医は、言いにくそうにこう話した。

「もし急変した場合、普通は救急車でまた救急病院に運ばれてICUで治療をしますが、もうご高齢なので……」

鈴木愛子さん(中国地方在住・60代・既婚)は意をくんでこう答えた。

「延命治療のことですよね? そうですね、母は今までよく頑張ったと思います。もし急変したら、もう救急車で運ばない方向でお願いします」

看取りまでお願いする、という書類にサインした。

「気管切開手術を受けた母は、転院先がなかなか決まりませんでした。母の気管切開手術を決めたのが私だったため、『本当にこれで良かったのか? 母はこれで幸せなのか? あの時気管切開していなかったら、今頃楽になっていたのかも……』と自分を責め続けていました。でも母は、言葉は失ってしまったけど、命は助かりました。家族の顔が見えて、声も聞こえる。笑うことだってできる。もっと回復したら、喋れるようになれるかもしれない。『母ならそうなる!』と信じることにしました」

リハビリ病院に転院した母親はみるみる元気を取り戻し、人工呼吸器も外されることに。

しかし喜んでいたのもつかの間、「病棟を移る」という連絡を受け、鈴木さんが病院へ向かったところ、そこは古くて暗い病棟。周囲はほとんど寝たきりの高齢者ばかりで、時にはうなり声が響き、ベッドの柵に縛り付けられている患者もいた。

「こんな言い方するのは心苦しいのですが、“死んでいくのを待っているような場所”でした。このままこの病院で最期を迎えるなんて……と思うと涙が出てきました」

この日、鈴木さんはその足で実家に行き、「お母さんをこの家で最期まで見たい! 今のお母さんを家で見るのが大変なことは分かってる! 一人ではできないのもわかってる! でも無茶は承知の上!」と姉に訴えた。

2020年の正月。鈴木さんの家族と姉の家族が集結し、家族会議を開催。全員で話し合い、家族で協力して、母親を母親の家で在宅介護をすることに決定した。

主治医に相談すると、「家族さんが大変ですよ」と言いつつも、反対はしなかった。鈴木さんたちが「頑張りたいです」と言うと、「介護者が吸引の仕方やベッドから車椅子への移乗など、看護研修を受け、しっかりと準備ができるなら……」という回答を得る。

主治医は、病棟の看護師やソーシャルワーカー、ケアマネジャーや訪問看護師、地域のかかりつけ医たちと連携してチームを組み、約3カ月後に在宅介護ができるよう、鈴木さんや姉たちに、気管切開の吸引・吸入、おむつ替え、鼻からの経鼻栄養の仕方などを教える段取りをしてくれた。

「協力してくださった看護師さんや介護士さんたちからはこう言われました。『気管切開していたり、経鼻栄養や吸引・吸入などが必要な患者さんを家族で介護したりすることは、なかなかできないこと。私たちもこのような経験ができて良かったです』『見本となる在宅介護の仕方です。一緒に経験させてくれてありがとう』と。感謝され、私たちもうれしかったです」

そしていよいよ2020年3月。88歳の母親の在宅介護がスタート。前年に熱中症で倒れてから、約7カ月ぶりの帰宅だった。

突然の義父の死

2020年4月。いつもの朝だった。90歳の義母は起きるのが遅いため、朝食時は93歳の義父とキッチンに2人でいることが多かった。その日も7時ごろ、テレビを観ながら、「コロナ、いつ収束するんだろうね」などと話していた。

午後から義父と義母は、カボチャの苗を植えるため、家から車で5分ほど離れている畑に行っていた。畑の草を取り終えると穴を掘り、苗を植えようと横を見ると、義母は義父がいないことに気がつく。

辺りを探すと、義父は畑と田んぼの間の川にはまって溺れていた。義母は耳が遠いため、義父が助けを求めていたのに聞こえなかったのだ。

義母は急いで義父を助けようと、長いくわを義父に差し出したが届かず。義母はすぐ近くの家まで、歩けない足で一生懸命助けを求めに行くも、その間に義父は下流に流される。近所の人が義父に気付き、川から救い上げようとしたが、衣服に水が含まれ重たくなっていたため、なかなか引き上げられない。そうしている内に救急隊が到着するも、すでに義父は心肺停止状態だった。

鈴木さんは、母親の介護で実家へ行っていた。義実家には誰もいなかったらしく、義母から聞いた連絡先に救急隊が連絡し、連絡を受けた鈴木さんが救急病院へ向かうと、義母は警察に事情聴取されていた。

義父の死亡確認は鈴木さんが行った。医師が義父の目にライトを当て、「15時24分です」と言ったが、鈴木さんは目の前で何が起こっているのか、事態がのみ込めずにいた。

今から思えば、義父は少し前から「しんどい、しんどい」と言って、義母と畑仕事をしては横になっていた。お風呂から上がると、足元がふらついていることが多かった。「なんでもっと早く気付かなかったのだろう」と、後悔がこみ上げる。

しかし泣く時間はなかった。事情聴取されている義母の元へ行き、耳の遠い義母の通訳を最後まで果たした。

何時間ぐらいたったか。義父は検死が終わると霊安室に通されていた。事情聴取から解放された鈴木さんは、やっと義姉、義弟、義妹に連絡することができた。葬儀の手配をしなければならなかったが、鈴木さんは放心状態だった。

「こういう時、8年前に亡くなった跡取りの夫がいてくれたらなと思いました。世帯主の義父が亡くなってしまい、町内のことは誰もわからなくなりました。お嬢様育ちで世間知らずな義母は何もわかりません。私は、朝まで生きていた義父を亡くし、今はコロナでお葬式の仕方もわからない、わからない尽くしの状態なのに、案の定、外野である義姉や義姉婿、義弟がうるさく口ばかり出してくることに、うんざりしていました」

何とか葬儀の打ち合わせを行い、喪主は鈴木さんの長男(34歳)が務めることになった。8年前、父親の時にもわからないなりに初めて喪主を経験し、今回2度目の喪主だ。

「まだまだ若いし、田舎で後継者としてやっていくのは大変です。親としては『よく頑張っている!』と99点をあげたいのに、外野たちはそうは思わないのでしょうね。義父が亡くなったそばからゴタゴタが始まり、神経やられそうでした」

鈴木さんは母親の介護にも行けなくなった。姉たちは、「こっちのことはいいから心配しないで」と言ってくれているが、できれば義実家のことはすべて投げ出して、母親のそばに居たかった。

「いろいろな手続きなど、義母ができないので、嫁の私が全部やっているのですが、正直ヘロヘロです。相続の話も出ていますが、嫁の私には関係ありません。実家は協力体制バッチリなのに、義実家はみんな勝手なことばかり言っていて大変です」

落ち込んだ様子の義母は、「私が代わりに死ねば良かった」と何度も口にした。義父が亡くなった翌日から、義姉婿が毎日のように義実家に入り浸り始めた。

「義姉婿はほとんど毎日義母のところへ来て、自分がこの家の主のように振る舞い始めました。私は、義姉婿の車を見ただけで、動悸どうきがして血圧が高くなり、病院へ通うようになりました」

母親の死

実母の在宅介護を担当するのが、鈴木さんと姉、姉の孫の妻、姉の末孫と複数人であるため、鈴木さんたちは介護ノートを用意。自分たちだけでなく、訪問看護師たちが見てもすぐに母親の状況がわかるようにした。

「私や孫ちゃんたちは、母を介護する時間以外は自分の時間を持てますが、姉は母と同じ部屋で生活していたため、母のゼーゼーしている音や咳、母の吸引の音などで睡眠もままならなかったと思います。でも、私たちはお互い、自分ができないことを4人の誰かがしてくれるという安心感があり、自然と支え合うことができていました」

2021年3月。その日はよく寝ていたので、鈴木さんは、口腔ケアは翌日にゆっくりしてあげようと思い、母親の横でウトウトして帰った。

翌朝の9時ごろ、姉から「お母さんの様子が変! 体温が35度もなくて、身体が冷たいような気がする!」と電話があり、すぐに実家へ向かう。その途中で、姉の末孫から、「おばあちゃん、心肺停止」とLINEが入った。89歳だった。

「いつかはこんな日が来ると覚悟を決めていましたが、悲しいものですね。前日は母とお昼寝をして、『また明日来るからね』と言ったら目を開けてうなずいていたのに……」

主治医は、「とても穏やかな優しい顔して、苦しまず、スーッと逝かれた感じがします。お母さんも今までよく頑張りましたが、家族の皆さんもよく頑張られましたね」と言った。

母親は、かねて姉と決めていた、家族葬で送られた。

義母の死

義父が亡くなってからも、義母はワガママなままだった。義父が義母に相談なく、農家の後継ぎを鈴木さんの長男に決めたことに腹を立て、以降、鈴木さんの長男とその妻を毛嫌いしていた。2022年5月ごろは相変わらず頑なで、「自分に介護が必要になっても、見てくれんでもええ」とはっきり言い切っていた。

「あの頃は、夫が亡くなってから、田畑の後継者として頑張っている長男の悪口を言う義母を許せず、『誰が義母の介護なんかするか!』と思っていました」

当初は義姉婿が、「義母の面倒は義姉が見る」と言っていたため、「それならその方が義母にとって幸せだろう」と鈴木さんは思った。すると今度は義弟から、「介護しないならこの家から出て行ってほしい」と言われ、義母も一緒になって鈴木さんたちを追い出しにかかった。

ところが義父の死から2年後。もともと糖尿病や腎臓病もあり、92歳になった義母は、日に日に身体が弱っていった。要介護1から要介護4になり、8月には自分で歩くこともできず、人の手を借りなくては生活できない状態になった。

いつしか鈴木さんや鈴木さんの家族たちは、義母からさんざん嫌なことを言われてきたにもかかわらず、自然に義母をサポートしていた。

ある日、義母は鈴木さんたちに、「今までのことは悪かった。これからもこの家で自分を見てほしい」と頭を下げた。

「当時、義姉や義姉婿たちは、義母の通帳を勝手に持ち出して、内緒でお金を下ろしていました。義母の身体の心配よりも、お金の心配ばかりしているように見えました。私は義母がかわいそうになって、この40年間、本当に嫌な思いをさせられたし、良い思い出もないけれど、これからの何年間で、私が私のために納得いく介護をして、義母を夫や義父の所に送ってあげたいと思い、それを家族に伝えました」

鈴木さんの子供たちは全員、「おかんはそうするだろうなと思っていたよ。それならみんなで協力するよ。おかんひとりだったらおかんの身体が心配だよ』と言い、それぞれができることをしてくれた。

2022年6月。義母は入退院を繰り返すようになり、2023年4月には突然の高熱。検査をすると、敗血症だった。主治医の話では、「2〜3日が山だ」と聞いていたが、鈴木さんが毎日面会に行き、義母といろいろな話をしていると、だんだん元気を取り戻し、食欲も戻ってきているようだった。

主治医に確認し、義母が食べたいものを持って行くと、今まであまり自分の素直な気持ちを出したことのない義母が、「おいしい、おいしい」とうれしそうに食べ、鈴木さんに「ありがとう」と感謝の気持を言葉にできるようになっていた。

「亡くなる前日も、私から見て回復してきていると感じていたし、私の身体を心配してくれる言葉や、私が帰る時には、『また明日来てな〜、楽しみにしとる。気をつけて帰るんよ』という言葉をかけてくれました」

2023年4月17日の早朝、義母は息を引き取った。

「義母は、穏やかで、幸せそうな顔していました。それを見ただけで私も幸せな気持ちになれました。これで、私の介護生活が終わりました。最初は嫌だった下のお世話も、やってみると大丈夫でした。正直義母の在宅介護はしんどかったですが、今は、義母がかわいい義母に変わってくれたから、最期まで介護することができたのだと思い、感謝しています」

鈴木さんはこう言うが、筆者は鈴木さんや鈴木さんの子供たちが義母のかたくなな心をほぐしたのだと考える。

「義母の在宅介護をしたおかげで、今まで私の長男の前で笑ったことのなかった義母が笑い、その笑顔を長男が目にすることができました。家族みんなで協力し、義きょうだいたちと戦え、しんどいながらもたくさんの幸せを感じることができました」

約40年も意地悪をされ続けてきた相手を献身的に介護し、看取ることまでできる人はなかなかいない。ましてや、一度も感謝の言葉を口にしなかった相手の心を溶かすことができたのは、奇跡に近いことではないだろうか。

しかし、残念ながら鈴木さんの戦いはこれで終わりとはならなかった。むしろ始まりと言っても過言ではなかった。

義きょうだいたちとの戦い

義父が亡くなったあと、一番近くに住んでいる義姉は、義姉婿(義姉の夫)をけしかけ、義母を言葉巧みにだまし、義父の通帳を持ち出し、貯金を下ろしていた。

「義姉は義父が亡くなった後も、仕事を言い訳にして、数えるぐらいしか義母に会いに来ていませんでした。もちろん私が義母の介護をしている最中も亡くなった後も、感謝の言葉なんて一度もかけてもらったことありません。義弟からも義妹からも何もありません。義母の貯金の世話はできても、義母の身体の心配なんて少しもしていなかったのではないでしょうか」

義きょうだいたちからは、二言目には、「ばあさんのお金を使うな!」ばかり言われていた。

義母が入退院を繰り返すようになったとき、義姉婿は、「もうここまで生きたのだから、そろそろあっちの世界に行ってもいいよ」と、耳が遠くなった義母の前で言っていた。

亡くなる前日に義母は、

「あの子(義姉)は、私を全然介護せず、あんたにばかり見せた。あの子(義姉)は、あんたのようには介護できんかったと思う。あんたに感謝もせずに……あの子は阿呆じゃ!」

と鈴木さんにこぼしていた。

そう思うのであれば、もっと早く行動に移すべきだった。鈴木さんの夫が亡くなった時、義父は、「わしが死んだら絶対に長女夫婦が財産を取りに来る。だから遺言を作っておく」と言って司法書士のところに相談に行った。しかし義母に止められ、結局遺言書を作らないまま、義父は急死、義母も亡くなってしまった。

義母の死後、義姉夫婦は、義父母の通帳を持って口座がある金融機関へ行き、「義父が亡くなった後から現在までの、入出金の履歴を出してほしい」と依頼したようだ。

「私が義父母のお金を使い込んでいないか疑っているのでしょう。私が同居して義母の介護をしているのに、『家賃を払え!』なんて言われたこともあります。実際、夫の跡を継いで、田畑をわが家の長男が耕していますが、これも、義姉夫婦に言われて義母に借地料を払わされていました。義母の介護をプロや施設のお世話にならず、私が在宅で介護したらタダ……なんておかしいですよね?」

これから相続の話になる。

「下手したら私や子供たちがこの家を追い出されかねないと思って、一応話がこじれたときのために、弁護士さんに相談しています。なのでこの家に住み続けられるかどうかは、これからです」

自分たちの親にもかかわらず他人に任せきりで、ただひたすら遺産を多くもらうことだけを考えて暗躍し、介護して看取ってくれた人たちを長年住み慣れた場所から追い出そうとする義きょうだいたちのなんと浅ましいことか。

実直な人たちが割を食う社会であってはならない。鈴木さんにはぜひ、子供たちと一致団結し、義きょうだいたちとの戦いに勝利してほしい。

<PRESIDENT Online>
ある夏、”90歳”3人の同時介護が始まった…50代で夫を亡くした嫁がひとりで支えた義実家”9人暮らしの館”

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