独身子なし女性49歳

作家・鈴木涼美さんの連載「涼美ネエサンの(特に役に立たない)オンナのお悩み道場」。本日お越しいただいた、悩めるオンナは……。

Q. 【vol.35】安定した仕事や家庭を持たず、虚しい人生に疲れたワタシ(40代女性/ハンドルネーム「romi」)

49歳の女性です。両親が不仲だったせいもあり、昔から結婚願望も子どもを持ちたいと思うこともなく、若い頃から結婚につながらない相手(既婚者や同性など)とばかり付き合ってきました。今は当然独身で子なしです。

就職氷河期世代のあおりを受け、非正規の仕事にしか就けず、収入も不安定です。やりがいのある仕事もなく、安定した家庭もない。今は趣味のピアノに没頭している毎日です。今の人生に後悔はしていないし、自分にはこの人生しかなかったと思います。しかし、先のことを考えると不安になります。正規の仕事に就き、普通の家庭を築いている世間一般の人たちのことを、どうしようもなく羨ましく思ってしまう瞬間があります。

私は透明人間です。私がいてもいなくても何も変わらないし、私を必要としている人もいない。こんな状況で生き続ける意味が分からず、歳を取ればますます生きるのが大変になるのだから、早めに死んだほうがいい、とさえ思います。こうした虚しさを抱えながら生き続けることに疲れました。まとまりのない文章ですみませんが、何かアドバイスをいただければ幸いです。

A. その自由さは思っている以上に尊い

所属する会社や万全な家庭を持っている人は確かに何か大きなものに守られて、この広くて荒唐無稽な世界で安心して生きているように見えるかもしれません。私自身、四十歳の時点で家庭もなく、仕事もフリーランスで寄る辺ない日々を過ごしていたので、その不安定さやそこはかとない孤独感は特に寒い夜などには身に染みていたクチです。

それでは私は、かつて所属していた、ちょっとやそっとでは潰れないしクビにもならないであろう企業に戻りたいかというと二の足を踏んでしまいます。私の家は、両親は不仲ではなく、言ってみれば愛に溢れる家庭で育ったけれど、ずっとそこで両親とともに暮らしたかったかというと、そうではないから十代でとっとと家を出たわけです。

自分をなんとなく社会の荒波から守ってくれる存在というのは自分を縛り付ける存在でもあります。逆に言えば、口うるさい先生のいる学校や、干渉してくる親のいる家庭など、思春期の自分がうざったいなと思ってその束縛から逃れたかった存在は、例外なく自分を守ってくれる存在でもあったわけです。そこから逃れて自由になるということはすなわち、それに伴う孤独の責任を負うということです。

「経験したことのない気楽さ」を感じた一人暮らし、でも…

生まれて初めて一人暮らしをした最初の一年のことをよく覚えています。私はそれまで同居していた親と喧嘩したまま、逃げるように実家を出てしまったので、最初は友人の家に泊まらせてもらっていました。そこでは実家よりはよほど自由がありましたが、それでも人の世話になっているので気ままに生活できるわけではありません。一カ月ほどしてようやく自分だけの部屋を横浜の桜木町の近くに契約しました。

最初の二カ月ほどは本当に自由に、自分が思うような時間に起きて自分の食べたくないものは一つも食べず、買いたいものだけを買って生活できることにかつて経験したことのない気楽さを感じていました。それまでたいして不自由と思っていなかった実家生活や友人との暮らしが、実際は人に気を遣ったり顔色をうかがったり、あるいは一緒にいる人に対してそれなりにきちんとした人間に見られるよう気を張ったりすることの連続で、とても疲れていたのだとその時よくわかりました。

しかし二カ月ほど経ってみると、夜中に変な物音がするたびに不安になったり、間違いで鳴ったチャイムのことが一週間以上気になったり、深夜に帰宅する際に夜道の背後が怖くてなかなか自分の家に入る気が起きなかったりということが増えました。そして家に入っても、この部屋で死んだら誰にも気づかれずに朽ちていくのだろうという変な想像力が冴えてしまい、なかなかリラックスできないので結局もう一回外に飲みに行くなんていうこともしばしばありました。

そういう時は安易な安心を求めるので、たいして好きでもない男を家に連れ込んでとりあえずの孤独や不安を誤魔化したり、何日か泊めてくれる適当な男と付き合ったり、だらしない女友達と数日ずっと一緒に飲み歩いて過ごしたり、という日々が続きました。それも自由な生活といえばそうですが、自由とともに降りかかってきた孤独との付き合い方がまだよく分かっておらず、とにかくシーンとした不安な時間を騒々しい何かで埋めようとしていたのだと思います。

虚しさに疲れた後、気づいてほしいもの

そんな感じで、自由を謳歌する時間と、孤独を紛らわせる時間を交互に経験し、徐々に一人で暮らすことの寂しさと楽しさに慣れていったのが私の十九歳の年のできごとでした。大学院を卒業した最初の一年や、会社をやめた最初の一年も、少し似たような、思いっきり自由を楽しんだかと思いきや急な寂しさに苛まれる、という経験をした気がします。男と一緒に住んだり、別れて一人で住んだり、という時期も似たようなものかもしれません。

だから虚しさを抱えて生きるのに疲れた、と思う時期があっても、個人的にはいいと思います。その疲れが、人生を生きるに値しないものにしてしまうほど大きくないのであれば。そしてその疲れの時期のあとに、両手いっぱいに抱えた自由の尊さに気づく時期が来るのであれば。

たとえば大家族がいて、夫や自分の両親の介護や子育てに追われていたら、今自分にとって最も楽しい時間、たとえば趣味のピアノに思う存分打ち込む時間というのはかなりの確率で失われていると思います。仕事が生きがいと思えるような大層なキャリアであったら、仕事以外の時間を有意義に使える余裕はないかもしれません。

小さい頃、英国で暮らしていた時期があるのですが、英国で当時労働者階級と呼ばれていた人々に憧れたのは、彼らは仕事を力の四割くらいで適当にこなし、余暇をいかに文化的で充実したものにするか、ということに注力しているように見えたからです。ポストオフィスに勤めながらオペラを趣味にしていたり、ミルクを配達しながら週末はDJをしていたり。幼い私には、エリートで立派な家庭を作り、仕事に生きがいを持っていて家族を豊かに養っている人なんかよりも、適当にミルク配達を終えてレコード屋に入り浸る自由の方がなんとなく尊いように見えていたのです。

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氷河期世代の独身子なし女性49歳「私は透明人間。いてもいなくても変わらない」 孤独の悩みに鈴木涼美の回答は?