お膳立てのつながり

日本では今、孤独・孤立が人々に身近なものとして受け止められている。現代社会でこの問題が顕在化した背景にはかつて日本社会を支えていた「血縁」「地縁」「会社縁」の揺らぎが関係している。孤独・孤立問題がどのように捉えられてきたか、その変化は三つの時代区分から整理ができる。

第一期は、高度経済成長を通じ日本社会に大きな構造変動が生じた1970年代初頭である。高度経済成長を経て、日本社会は働く父親と家庭を守る母親がつくる核家族が「標準」のサラリーマン社会へと変貌を遂げた。他方、都市への人口の集中は、これまで地方に存在していた「地縁」を解体し、地方に残された高齢世帯を孤立させた。

70年代には、「一人暮らしの高齢者」の事故を扱う新聞記事が増え、厚生省や全国社会福祉協議会も実態調査を行っている。しかし、当時の孤独・孤立問題は、高齢者福祉の問題に収斂され、社会全体で幅広い注目を集めることはなかった。

次に国民の関心が高まったのは、阪神・淡路大震災が発生した95年である。震災後、多くの被災者が仮設住宅に入居した。だが、仮設住宅の入居は、もともとあった地域のつながりを考慮せずに行われてしまったため、域内では「孤立死」が頻発した。ただ、孤立そのものは災害時の特殊事例と見なされ、この時もあまり大きな注目を集めなかった。

第三期の90年代後半から2000年代に入ると、日本の戦後体制に本格的な揺らぎが生じてくる。終身雇用の企業体制も、皆婚社会と言われた婚姻状況も、徐々に過去のものとなってゆく。

これまで日本に住む多くの人を取り込んできた「家族」「会社」というつながりが大きく揺らぎ、人々の間にどこにも根を張れないという不安が蔓延した。メディアでも孤独・孤立に関する報道が散見されるようになる。そこに新型コロナウイルスによる自粛が追い打ちをかけ、孤独・孤立問題は高齢者だけではない日本社会全体の問題として一層の注目を集めるようになった。

つながりは「お膳立て」をしなければ持てない時代

コロナ禍が孤独・孤立を加速させた原因として、災害としての特殊性があげられる。東日本大震災の時の「絆」ブームのように、通常の災害はつながりを深める方向に作用しがちだ。しかしコロナ禍では、つながりは不要不急のものと見なされ、淘汰されていった。私たちは自らにとって必要なつながりを検討し、選別したのである。

もう一つ重要な要因としてあげられるのが、2000年代の第三期に普及した情報通信端末である。端末同士で人を結びつける携帯電話・スマートフォンは、つながりにおける物理的な場の必要性を縮減し、つながりをより選別的にする。

わかりやすい例として『ドラえもん』に登場する少年たちをあげておこう。のび太をはじめとする少年たちは、学校が終わると空き地という「場」に赴き交流をする。空き地には、いじめっこなど嫌な人もいるかもしれないが、人と会うには空き地に行くしかない。そのため、放課後になると彼らは空き地に集まり、居合わせた人と交流していた。しかし、個々人が携帯、スマホを持つようになると事情は変わる。少年たちはもう、〝誰か〟に会うために空き地に行く必要はない。ジャイアンやスネ夫に会うのが嫌ならば、スマホを通じてあらかじめ会う人を確保し、そのメンバーでどこかに待ち合わせればよいのだ。個々人が端末で結ばれた中で展開されるコミュニケーションには、無意識のうちに選別的なまなざしが入ってしまうのである。

つながりを補償する「場」の機能が弱くなった社会では、端末を駆使しつつ、ある程度積極的に「外の人」と連絡をとる必要が生じてきた。しかし、誰もが積極的に誰かと連絡を取り、交流を始められるわけではない。むしろ、日本社会では誰かから声をかけられるのを待つ「誘い待ち型」の人のほうが多いだろう。

これらの人に対するコロナの影響は決して小さくなかった。コロナ禍による接触の選別により、組織での懇親会は不要と見なされ、見直し対象となった。懇親会は、負の側面が取りざたされがちだが、「誘い待ち型」の人に安定的なつながりを提供する機能もあった。懇親会の喪失を歓迎するのは、「他にやりたいことがある人」や、「つき合いたい相手がいる人」「人づき合いがとにかく嫌な人」くらいなのではないか。

その中間に属するとも言える「誘い待ち型」の人は、結果として、より積極的に他者に声をかけるよう求められるようになった。いまや孤独・孤立を解消するには、面倒や気恥ずかしさがあっても、つながりに入れるよう自ら働きかけねばならないのである。とはいえ、誰もがそのようにできるわけではない。このような人々に対しては、誰かとつながることができるよう誰かが「お膳立て」をする必要が増している。

焦点を当てるべきは団塊ジュニア以下の世代

だからこそ日本社会では、孤独・孤立を社会問題と捉え、政策対象にしてきた。しかしながら残念なことに、「問題」が本格化するのはこれからだと言わざるを得ない。とくに注目したいのが団塊ジュニア以降の世代である。

国立社会保障・人口問題研究所が国勢調査のたびに発表している、日本に住む50歳の人の未婚率(50歳時未婚率)は上がり続け、20年には男性28・3%、女性17・8%に達した。もはや日本はほぼすべての人が結婚していた皆婚社会ではない。

20年に50歳を迎えた人たちは、いわゆる団塊ジュニアにあたり、人口的にかなりのボリュームがある。20年における50歳時未婚率の増加は、家族というつながりをつくらなかった相当数の人が、いよいよ高齢期を迎えることを意味している。これは日本社会が初めて経験する事態だ。

古くは1970年代に提唱された「日本型福祉社会」論に見られるように、日本社会は家族成員による福祉を重視していた。その傾向はソーシャル・サポート研究にもしっかりと現れている。人々のサポートの中心を担っているのは家族であり、なかでも、配偶者・親・子のサポート効果はとりわけ大きい。

日本社会で事実婚は少数だ。したがって、結婚をしない人は子どもがいないと考えて差し支えない。ゆえに未婚者は子どものサポートを期待できない。親についても、自身が50歳になれば、サポートを期待するというより、親を支える側に回るだろう。つまり、今後は家族という最大のサポート源をもたない多くの人がいよいよ高齢化してゆくのである。

家族主義的な日本において家族を代替するつながりは今のところ見つかっていない。モノやサービスの充実を原動力とする資本主義社会では、誰かとつながる必要性は減じられ、つながりはますます〝嗜好品〟の位置に追いやられてゆく。そうなると、団塊ジュニアよりも若い世代は今よりもさらに結婚や人づき合いから遠のいていくだろう。こうした若い世代の一定数が孤独・孤立の問題を抱えるのは想像に難くない。以上の点を鑑みると、この問題が本格化するのはこれからだと言えよう。

「つながり」や「縁」を強制することが現実的ではない現代社会では、つながりの場の提供と合わせて、個々人が誰かとつながるよう積極的に動くことを求められる。

確かにつながりには面倒な側面もある。しかしながら、杉岡良彦氏による研究「孤独に関する医学的研究と人間の孤独性」などでも示されているように孤独・孤立が個々人の心身に悪い影響を及ぼすことは明らかだ。そして、つながりは急にできるものではない。むしろ、自己責任論の強い日本では体調不良や経済的な困難など、つながりが必要な時ほど、人に迷惑をかけまいとつながりから遠ざかる傾向にある。だからこそ、健康なときに誰かとつながることを意識する必要があるのだ。

あまり構えなくてもよい。無理して会話をしたり、誰かと友達になったりする必要もないだろう。大事なのは、どこかの場に身を置いておくこと、それをあまり億劫がらないことだ。身体が動くうちにそういったことをしておくことが肝要である。

一人で様々なことができる社会は、何をやるにも誰かと調整する手間が減り、気楽で便利だ。現代社会は「縁」をしがらみと捉え、そこからの解放を求めてきた。そして「おひとりさま」ブームや「ソロ〇〇」の流行にみられるように、一人でいることも自由として肯定されるようになった。しかし、私たちが選んできたそのような社会は人とつき合うことに積極性を求められ、孤独・孤立の不安にさらされる社会でもある。

孤独・孤立に陥る自分を認めたくない、想像したくもないかもしれない。だが、現代は気が付かないうちに多くの人が孤独・孤立と隣り合わせになってしまう社会である。だからこそ、自分が今、どのような状況に置かれ、どのような備えが必要なのか、あるいは備えられるのか。その点を個々人が自覚することから始めるべきなのである。

<Weddge ONLINE>
<孤独・孤立はあなたのすぐそばに>問題本格化はこれから、誰かとつながるために誰かが「お膳立て」することが必要な時代へ

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