近年、よく聞かれる「孤独」をテーマにした話題は、若者やシニア層、生活困窮者の文脈のなかで語られることが目立つが、じつはその限りではない。はた目から見たら年収や家族に恵まれ、何不自由ない暮らしを営む中年男女もまた、”よるべなさ”を抱えている場合もある。
現在、広告会社でマーケティングの仕事をしている筆者が、未婚や家族の有無にかかわらず、”よるべ”について実際に調査したところ、約74%が「いざという時に頼りとなる人間関係の構築」に不安を抱えていることが分かった。
金融機関で働く40代のXさんは、この先の将来に漠然とした不安を抱えるものの「男に求められる強さや責任は、一昔前とあまり変わっていない」と、家族にすら本音を打ち明けられないという。
また、Sさんは自己実現することが”善”と信じ、仕事にまい進してきた女性だが、気が付いたら婚期を過ぎ、40代になって腫瘍が見つかったのをきっかけに、はじめてため込んでいた不安が一気に噴き出したと話してくれた。
XさんやSさんのように、”よるべなさ”は実際のところ、それぞれの事情がもととなり派生する個別の感覚と言えるが、しかしながら「豊か」で「恵まれて」いても、心に孤独感が忍び込むその背景には一体、なにがあるのか。<47歳「エリート金融マン」が漏らす孤独の正体…「家族にも弱音を言えない」「八方ふさがりです」>に引き続き分析する。
新しい人間関係をつくる術がない
Sさんは気がついたら40代独身、両親も年を取り、リモートワークで同僚と会う機会は激減し、大した趣味もないからともに興じる仲間もいない。仕事の戦力として自分に興味を持つ人はいても、個人として求めてくれる人は少ないことを身に染みて実感したという。
「初めて自分は不死身ではないんだと思いました。将来いつまた入院してもおかしくない。入院代は自分で稼げばいいけれど、もしそのとき、自分の容態を案じてくれる人や、治療の難しい判断に迫られたときに嫌がらずに相談に乗ってくれる人がいなかったら、すごく堪える。とてもよるべないと思いました」
Sさんがそんな気持ちを既婚者の友人に話したところ、遠回しに「結婚しなかったんだから、(そういう状況になるのは)わかっていたよね」と言われたという。
「友人に悪気はなかったと思うのですが、なんだか、よるべないのも自己責任だと言われた気がして。本当にそうなのかなと悲しくなりました」
入院の一件は、Sさんの会社との距離感にも微妙な変化をもたらした。自分が元気で過ごせる時間が永遠ではないと悟った今、会社から期待される成長や責任を全うしようとがむしゃらに頑張り続けることに違和感を覚えるようになったという。
「ガツガツがんばっても天井は見えている。今までずっと頑張ってきたから、これからはもっと心穏やかな自分でいられるサステナブルな環境に身を置きたい」と彼女は言った。
Sさんは今、あたたかい人間関係を求めて、新しく人とつながる術がないように感じるという。
「学生時代からの大切な友人はいるけれど、彼女たちにはみんな家族がいる。自分も結婚すればいいと言われそうですが、でも、よるべなさの解決策を結婚に求めることが、個人的にはしっくり来ないんです。
結婚には色んなものが付随しすぎている。趣味で友人ができる人もいると思うのですが、私は無趣味なので、趣味グループに飛び込んでいって、それほどやりたいわけでもないことを一緒にやるところから人間関係を始めるのがしんどいな、と思ってしまいます」
存在「そのもの」を認めてもらえない辛さ
Xさん、Sさんの二人の話から、何が中年世代のよるべなさを生んでいるのか、改めて考えてみたい。
立場や境遇は異なる二人だが、共通しているのは、どちらも高学歴かつ大手企業に就職するなど、はた目には順調な人生に見えても、自分の心のうちを開示でき、受容し合える人間関係が極めて限られていることだ。そこには、今の40-50代が近代化し市場化してきた社会を生きてきたという背景がある。
彼ら彼女らは、村社会や親族集団といった旧来型の共同体が力を失い、核家族化が進んだ1960年代以降に幼少期を過ごし、男女雇用機会均等法の施行後に社会に出るなど、しがらみにとらわれず自分らしく生きることが本格化した世代だ。
生き方や価値観が自由になった結果、家族のあり方も多様化し、Sさんのような独身男女も珍しくなくなった。そして、人々が所属先を自由に選び取るようになった過程で、人々のつながり方に変化が生じた。
すでに社会学の研究者らによって指摘されているように、旧来型の共同体は封建的ではあっても、共同体に帰属する構成員として“そこにいること”(being)でもって受容される温情的な側面があった。
もちろん個々の構成員の能力や貢献度の違いが意識される場面はあっただろうが、お互いさまと助け合う力学がより強く働いていた。
しかし、自由な個人同士が合理的につながる社会になった結果、個人は“そこにいる”だけでは存在を認めてもらえず、“何かをなしていること”(doing)や能力がある限りにおいて“価値ある個人”として認められる、“条件つき受容”に変わってしまった。
Xさんの話にあった、SNSを含む中年世代のつながりの現場で、自己アピールやセルフブランディングに長けた強者同士の結合が幅を利かせている現状などは、まさに“条件つき受容”の現れだろう。
そこでは、互いに、この相手とつながったらメリットがあるか? 何か面白いことができるか? という価値評価が、絶えず行われているといっていいだろう。結果、つながるメリットがわかりやすい人には人が群がるが、そうでない人はスルーされてしまう。
このような“条件つき受容”のつながり方は、双方の自己実現には最適だが、“自分の価値を証明し続ける限りにおいての承認・つながり”という側面が色濃く、人はそこに安らぎや自己開示といった“よるべ”を見出せない。
新しいつながり方をどう模索するのか
一般に中年危機といわれる健康やキャリア面での揺らぎが訪れやすく、社会やビジネスの真ん中で日々闘っている中年世代のよるべなさの根底には、このドライな“条件つき受容”の人間関係の浸透があると思われる。
思うに、自己実現も大事だが、人々のよるべなさを和らげるのは、旧来型共同体が有していたような、行為者であることや能力によらない、存在(being)自体に対する、他者からの “温情的な受容”ではないだろうか。
とはいえ、今の中年世代が求めていることは、旧来型共同体での集団生活への単純回帰ではない。すでに物理的に分散し、生計もそれぞれ維持している人々が求めているのは、“精神的な帰属先”となる共同体なのだと思う。
それは、拙速な価値評価をされることなく、お互いさまと言って不安を話せ、気持ちを受け止めてもらえ、心が温かくなる人間関係だ。そして、そんな関係性を血縁家族の中だけで充足できる恵まれた人は減少している。
今、自己実現を目当てに相手と合理的につながるスタイルとは別の、 “新しいつながり方”が求められていると思う。よるべない人々の“精神的な帰属先”を再構築する挑戦はすでに始まっている。
<現代ビジネス>
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